虹芝寮との70年

本稿は、2003年に三枝氏が制作された記録アルバムの序文です。氏が寮へ寄贈された二冊のアルバムをそのままPDF化し、閲覧できるようにいたしました。
昭和7年(1932年)の虹芝寮建設の際、当時成蹊旧制高校生であった氏は、予定地の選定から実際の建築まで携わり、以来寮の存続に多大な貢献をされています。
先に出版された80周年記念誌の制作編集には、この二冊の貴重な記録が大いに役立ちました。設備や植生の変化が読み取れる写真、なにげない寮生活のワンカット、アカデミックで冷静、かつユーモア溢れる文体で綴られる内容は、読み返すたびにあらたな発見を我々に与えてくれます。
プリンタ出力を分厚い台紙へ丁寧に配置したこのアルバムは、現在でも寮の書庫で閲覧することができます。

虹芝寮が建設されて70年が経過し、私も89才を過ぎようとしている。開寮式と命名式の写真撮影を依頼され、親父の手札のフィルムパック使用の重い(約2kg)レフレックスを担ぎ揚げて撮影していた。

当時は、住んでいた中野にも吉祥寺にも現像・焼き付けをしてくれる写真屋が無かったので、現像は自分で、プリントは太陽光による手焼きで行ったので、手間がかかり、出席の諸兄にも配らずアルバムにはったままにしておいた。戦前は山に写真機を携行する人は極く限られていて、その人達が私に贈ってくれた写真も、同じアルバムに収められていた。戦災で多くのものを失ったが山の道具とこのアルバムは親父が疎開してくれたお陰で、今も手元にある。

学窓を去ってから勤務の為に東京を離れ、山登りは勿論虹芝寮を訪れる機会を失った時期もある。
(一部略)
いよいよ仕事を離れて再び山にゆく閑が出来たときには齢63才をすぎ、山仲間の多くは山から離れて、一人で行動するには体力的に無理があり、結局は現役諸君や若い踏高会会員諸兄たちの世話になりながら山に入ることとなった。行きたい山は沢山あってもこのようなチャンスは少なく、行き着く所は虹芝寮、これも寮祭や寮整備、GWに同行させて貰うのが私の主な山行きとなった。

このようにして、虹芝寮が出来てから70年祭迄の入寮と、宝川から笠岳・清水峠を越えて寮の建設地に来たとき、建設途上の(了度屋根と二階の床が張られていた)寮に建設作業監督中の渡辺、高木両君と泊まった日を加えると寮滞在日数の合計は296日となる(表参照、虹芝寮の四季、p5)。

開寮式から此の296日の聞に撮った写真、同行の方達から贈られた写真は、このようなアルバム3冊に纏められてある。此のアルバムは私の死後は家族にとっては無用の長物で何れは捨てられる運命にあるであろうことを考えると、いささか淋しい。そこでパソコンを購入した機会にこれらの写真から代表的なものを選んでコピーし、アルバムにまとめる事を考えついた。しがし、上述のように寮の生活が大分で山行は殆どなく、数次のGWの芝倉沢位であるので、アルバムの構成を下記のごとくした:


虹芝寮建設とその後の変遷
寮生活あれこれ(PDF:15.5MB)

虹芝寮の四季
土合から蓬峠
雪崩(PDF:21.2MB)

2003/10
三枝守維
(旧高10年、1935 、卒)