土合山の家は虹芝寮と関わりが深い。虹芝寮建設まではもちろんのこと、昭和7年の虹芝寮完成以降も、土合山の家先代の中島喜代志氏は虹芝寮の鍵の管理を任されており、成蹊の学生は中島氏を訪ねた。
虹芝寮を建設した踏高会三枝守維は述懐する。「喜代志はきさくないい人でしたよ。おやじは農家でね、清水トンネルを作るときは飯場の長をしてたんじゃないかな。土合山の家はトンネル掘る人たちの子供たちの学校だったんだよね。あそこはね、軍が森を切ったから雪崩でやられたんだよ。それで少しこっちにずらしての立て直したのが今の家なんだよ。ぼくらがやまへ行った頃は、喜代志がお米しょったり野菜しょったりして、僕らの補給は土合山の家だったから、なくなると誰か下りて行って、喜代志がしょってきたんだ。きさくないい人でしたよ。もともと、喜代志のうちはねえ、湯檜曽の呉服屋だったんだよ。たしか山の家と両方やってたな。喜代志の時代になったころは、山登りが盛んになって、土合の山の家もお客さん多かったから 山の家を専門でやるようになったんだね。そのころは、清水トンネルも開いたばかりだったからね、それで僕らが虹芝寮をつくって、年は僕と同じだったよね。確か大正3年生まれだった。昭和6年頃(1931年)だから、僕らが16歳のころだな。土合山の家が補給基地だったんだよ。それから山の家にだいぶ泊まってますよ、僕らも。黙って止まって黙って出てくるわけだ、とにかく掘立小屋でね、僕らの時は土合の駅はなかったからね、信号所だったんだよ。動いている貨物車に下りるのは楽だったけど、乗るのは大変だったよ。あれは高さがあるからね。貨物列車は飛び乗って飛び降りてた。荷物を先に投げて僕も飛び降りる、それが面白くってな。そのうち客車が通るようになって、あそこに停まるようになった。・・・」
三枝守維氏の述懐の頃を谷川岳山岳資料館史料から引用する。「土合は信号所として設けられ、二年後の暮れに信号所は乗客が乗り降りする土合駅に昇格した。国鉄のスキー場用にと、土合にあったトンネル工事関係者の子弟用の湯檜曽の幸知小学校の土合分教場を改造しての山の家であるのにスキー客が来ない。いくら無償で払い下げられたといってもである。後にこの小屋は終戦の昭和二十年一月に雪崩で潰されてしまい、現在の場所に立て替えられるのであるが、雪崩の原因は軍の要請で保安林が切られたためであった。小屋を始めたものの客も村の連中も来ない。喜代志は山へ入りゼンマイ、コゴミなどの山菜やクマやモモンガの素晴らしい毛皮を独占する。モモンガはフランスにもの凄く売れた。一頭二円五十銭。猟は夜。雲がちょっと出ているのが良かったが月の半分は出猟でき、一回で七、八頭は捕れた。ゼンマイもいぶせば重さは半分になり、ただ干すだけより虫にも食われず、高く売れた。」中島喜代志・谷川岳山岳資料館蔵)
「上越線開通の翌年、群馬県出身の小暮理太郎が仲間と一緒に山の家に泊まる。小屋の経営に絶望しつつあった喜代志に理太郎はこう言って説明した。谷川岳は素晴らしい山だ。東京からも近い。スキーは駄目でも、将来きっと登山で発展する。それには道を付けなければ駄目だ。あんたがそれをやれ。登山は英国から入ったスポーツで、これから盛んになるぞ。あんたがガイドとして道案内をやれば、いい仕事になる。道が出来れば人は必ず来る。そうしたら、そこに駅ができる。だまされたと思ってやってみろ。…中略…登山道が出来ると登山者が殺到した。駅にも昇格し、喜代志小暮理太郎との出会いが無ければ今の自分は無かったと後にしみじみと述懐したという。」中島喜代志・谷川岳山岳資料館蔵)